2月24日 日中合作映画 空海−KU-KAI− 美しき王妃の謎
が公開されたので時期を合わせて空海のお話ですね
真言宗ですがよく知らないのでこの機会に空海について勉強します^^
世界ふしぎ発見! より
空海
唐に留学し当時最新の仏教の教えであるインドから中国に伝わったばかりの
密教を日本に持ち帰った方です
31歳で中国へと渡るまでの11年間の足跡は謎に満ちているのだとか
密教とは
密教とはどのようなものなのか
高野山大学には世界で唯一密教学科があります
仏教の中でも秘密仏教と呼ばれています
密教の教えは
灌頂(かんじょう) (戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のこと)
を受けて初めて授かることができます
上の段階に行く時に師が認めて行う儀礼でごく限られた弟子しか受けられないものです
空海誕生(774~835)
西暦774年に四国75番札所 総本山 善通寺 で生まれました
四国88カ所巡り お遍路さんの装束に書かれている 同行二人
88か所の霊場を開いた弘法大師空海と共に歩くという意味だそうです
父は地方の役人 佐伯直田公 真魚(まお)と呼ばれた子供時代から
非凡で親の期待を一身に背負い
官僚を育成する都の大学寮へと進みましたが
一人の修行僧と出あった事から大学を中退して厳しい修行僧の道へと入ったのです
私費留学
西暦804年 空海31歳の時に
訪れたのは当時シルクロードで世界と結ばれていた世界の中心でもあった
唐の都長安です
当時の長安は人口100万大勢の人が集まる国際都市でした
現在の中国では西安となります
西安の方に空海を知っているかと聞くと
・ここにきて仏教を学んだお坊さん
・空海さんがいた頃のいい関係に戻って欲しいとおじいさんは言っていました^^;
・仏教を日本に広めた方
・フェイマス(有名 名高いの意味)
などと答えられて西安の方は1200年前の空海を知っていました
留学から1年後の西暦805年5月頃
空海は青龍寺の密教第7代教祖の恵果(けいか)を訪ねました
恵果は自分の命が消えようとしていても後継者を決めていませんでした
訪ねてきた空海にむかってそなたが来るのを待っていたそしてすべてを授けようと
謎1 恵果の弟子は1000人とも言われているのになぜ日本から来て会ったばかりの空海を後継者に ?
空海は書家文人としても知られ日本中に伝説や足跡を残している方なのです
三教指帰(さんごうしいき)という出家宣言の書物も書いていました
また五筆和尚と呼ばれあらゆる書体も書けたのです
空海は前もって手紙なり論文なり書物を恵果に送り
連絡を取り合っていたのではないかと推測されます
でないといきなり後継者には選べませんよね^^;
5月に初めて恵果と空海は出会い
6月に胎蔵法の灌頂(かんじょう)
7月金剛界法の灌頂(かんじょう)
8月に阿闍梨の灌頂(かんじょう)を受けられました
全てを伝えて恵果は4か月後に没したそうです
空海は唐に渡って2年で密教のすべてを受け継いで帰国したのです
謎2 中国に着いた時 何故 中国語が話せたのか ?
西暦804年共に遣唐使となった最澄(さいちょう)と海を渡ったそうです
最澄は公費での留学で通訳もついてたそうです
社会学科教授 藤谷厚生先生のお話では
空海は日本で直接中国人から習っていたのかもしれません
当時は中国からの渡来僧(日本に来た外国の僧)が比曽山寺で修行していたので
そこに入っていければ仏教も語学も学ぶことができたようです
謎3 一介の修行僧が莫大な留学費用をどうやって集めたのか?
空海が修業した場所には水銀にちなんだ地名が沢山ある
水銀の鉱脈をみつけてなんらかの形でお金に変えたのではないかと思われます
空海が真言密教の道場を開くのに高野山に入り狩場明神に出会った
そしてその母の 丹生都比売からここを道場にする許可を得たそうです
高野山の麓にある丹生都比売神社(にゅうつひめ)は
伊勢神宮に祀られている天照大神の妹神で高野山の守り神なんだそうです
高野山を含む丹生神社は中央構造線上(日本を南北に分ける巨大な断層)にあり
その周囲には水銀の鉱脈が集中している
丹とは水銀の事
そこでは水銀が摂れていた可能性が高いようで
水銀を生成していた場所の遺跡もあります
水銀は丹砂(たんしゃ)硫化水銀は赤い化合物として採掘されて
当時は神社仏閣を朱色に魔除けとして塗装に使われていました
鍍金(ときん)古代の金メッキにも利用されました 水銀に金を溶かすと
アマルガムという合金になります
それを金属に塗って熱で水銀を蒸発させると金の被膜ができます
水銀は当時寺や仏像仏具を作るのにかかせない重要金属だったのです
誰に売っていたのか ?
渤海(ぼっかい)の商人
渤海とは現在の北朝鮮からロシア東部にあった国で
日本海から船で容易に渡っていける国だったようです
主な目的は商売ですね
空海が日本語の表記に加えた音とは何 ?
大東文化大学 山口先生のお話です
ん んという書き文字がなかったので必要に迫られて作ったようです
阿吽(あうん) 吽という字は(こう)という読み方の字はあるが
中国でも使われていない字という事で
発音を(ん)として使う事を決めたのです
だからんは あいうえおの最後に付け足しのようになっているのですね^^
帰国後
1260年以上の伝統を持つ奈良の春を告げる東大寺二月堂修二会(しゅにえかい)
帰国した空海は密教のすべてを持ち帰った事を天皇にも知られ
東大寺の別当(べっとう)寺を統括する長官職になったと伝えられています
永遠に生きている・・・
空海は62歳で高野山で永遠の瞑想に入りました
弘法大師空海は今も生きていて奥之院で瞑想を続けてお食事も召し上がります
行法師(奥之院に勤める僧侶)が毎日2回奥之院にお届けします
弟子たちはその日から1200年の間
1日も欠かさずに空海の霊廟に食事を運んでいるのです
これからもずっと・・・
霊廟の修復
霊廟の修復にあたり屋根に上がり弘法大師様を下に見る事になるので
修復する職人さん達は人間ではないと思われるように
尻尾を腰に付けることで人以外の罪のない動物になって
作業する風習が続いているそうです
空海−KU-KAI− 美しき王妃の謎
1984年(昭和59年)4月14日公開の日本映画
34年ほど前に北大路欣也さんが空海の役されていたのですね
見てないからAmazonビデオにあったからみようかな^^;
なんか間違ってプライム会員になってて3900円も引かれてた>_<
から無料のいっぱい見てもと取らないとね^^;
紹介文 引用致します
宝亀5年(774年)、四国に生まれた空海が18才で都の大学に入るが、
地方豪族の子弟が中央官界入りする悲哀を洞察して身を山林に投じ、
過酷な修行を経て仏教への眼を開く。
決死の覚悟で渡唐、密教の全てを伝授されて再び死を賭して帰国。
やがて日本に壮大な思想と文化を広めるという偉業を成す。
だが、その裏には、空海が一人の人間として如何に完全なる人間を目指して懸命に生きたか、
その生い立ちから入定までの61年の波乱の生涯をドラマティックに、かつまた完全に描ききる。
総製作費は、当時としては破格とも言える12億円という巨費を投じ、中国大陸への一大ロケーションの敢行、
当時のままの遣唐使船を建造し、撮影するという想像を絶する映像が繰り広げられる。
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