激撮! 直撃 スクープⅢ 報道記者が見た歴史的現場 より
平昌オリンピックの開催地
北と南が激しく衝突して多くの血が流れた悲惨な歴史がある地でもあるのです
1996年 江陵(カンヌン)浸透事件 北朝鮮の25人のスパイを乗せた潜水艦が座礁
スパイは逃走しましたが韓国軍により13人が射殺され24人が死亡 韓国側も民間人含む17人の死者をだす悲惨な事件でした
公園に展示されている北の潜水艦 内部も見学できるようになっています
機密書類を燃やしたのか内部はいまだに焦げ臭い匂いがするようです
内部にある機械類には日本製のものもあります
これ以外にも朝鮮戦争の時にも北が江陵(カンヌン)から上陸して激しい戦闘がありました
そんないわくつきの場所で平和の祭典が行われているのですね・・・
オリンピックでは北と南の融和ムードも漂っていましたが はたして 南北統一は可能でしょうか ?
どうも私は北は独裁国家という怖いイメージしか持てないのですが^^;
今の北朝鮮の様子は国営放送局の朝鮮中央テレビの映像でしかみられません
1970年~1990年代の北朝鮮は積極的にメディアの取材を受け入れていたのです
金日成主席は隣り合う国でもありますし日本とは国交正常化を望んでいるとインタビューでは言われていました
日本のテレビ局も北朝鮮の日常風景をカメラに収めていました
北朝鮮の庶民の楽しみは 焼肉と朝鮮冷麺で月に一度の贅沢と紹介されていました
市民の表情もある程度自由に見て回る事ができたようです
韓国との国境近くにある 観光名所 金剛山(クムガンサン)の滝つぼの水が売られていました 記者は温泉リポートまでしていました^^
日本人がハワイや東南アジアと同じように金剛山を観光地として楽しめる日はいったいいつの日になるでしょうか ? と取材リポートは締めくくられていました
北朝鮮・国の呼び方
北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国 と正式名称を使っていましたが
北朝鮮とだけ呼ぶようになったのは2000年代に入って
拉致被害者の存在が明らかになってからの事のようです
何故取材が許されていた ?
北朝鮮を6回訪問取材し続けていた記者元MBS報道局記者西村秀樹さんは
大阪の朝鮮総連在日コリアンたちと大阪のテレビ局である毎日放送と
お互いに求めるものがあって 北朝鮮は国家発展を伝えてほしい
日本メディアは実情を知りたいという思惑が一致していたからのようです
けれど当時も監視の目も光っていて制限も多かったようです
100位取材項目があっても10程しか叶えられなかったようです
1983年ラングーン事件
ビルマの首都ラングーンで 北朝鮮工作員が 訪問中だった韓国の全斗煥(チョンドファン)大統領一行の暗殺を狙った事件
1987年 偽造パスポートを使って日本人になりすました北朝鮮元工作員の金賢姫(キムヒョンヒ)が大韓航空機を爆破させて乗員乗客115人死亡した事件
テロ事件が相次いだことによって国際社会から北朝鮮は卑劣なテロ国家だと認識された時期です
事件後の北朝鮮の取材では 地方都市への移動は夜間寝台車を使うように指示
夜中に何故寝台特急なのか ? 街中を見せたくなかったからでしょう
明け方にみえる景色は平壌(ピョンヤン)以外の街はあばら家ばかりだったようです
1989年 低所得の家庭の取材では 新しいミシンと冷蔵庫 テレビ 豪華な食卓 子供のバイオリンの演奏・・・ 取材を申し込むと3日待てと言われたそうです その間にこれらの演出がされたのかもしれません
うわべだけの生活の取材に違和感は?
平壌はショールームであると百も承知でいく
1つ1つを積み重ねて何が真実であるか加味して判断するしかない
吟味してウソの報道はしていなかったそうです 見る側の判断かもしれませんね
帰還事業
北朝鮮への帰還事業へのうたい文句 地上の楽園
北朝鮮帰還事業は1959年~1984年に行われていました
在日コリアンとその家族を北朝鮮に帰還、移住させる事業
当時の 在日コリアン約60万人 帰還した人約9万4000人
うち日本人約7000人 うち日本人妻約1850人
この事業を推進していたのが朝鮮総連(北朝鮮系の在日団体)
多くの在日コリアン達が貧困状態だったり差別だったり帰還を望む人が増えたことから希望者を北朝鮮に帰らせることにしたのです
地上の楽園 と称されていた北朝鮮へ向かった在日コリアンと日本人妻を
待っていた現状は・・・
新潟港から船で北朝鮮に渡りました
用意されていた部屋には調度品やピアノまである映像は残っていますがそれが必ずしも北朝鮮の現実の姿ではありませんでした
朝鮮総連は帰還事業を進める事にやっきになっていました
住宅も学校も安心仕事にも就けると 日本でも北朝鮮のめざましい発展があると報道していましたが
北朝鮮で待っていたものは楽園ではありませんでした
金日成主席に笑顔で迎えられた帰還者たちは
朝鮮戦争で人口が減った北朝鮮にとって願ってもない労働力だったのです
働けば働くほど豊かになるという理想の生活とはかけ離れていたのです
そして脱北する人も沢山いたのです
30年以上過酷な生活をへて脱北した男性は 朝鮮総連に向かって
10万近くの帰国者を地獄の底に陥れたのは誰か! と怒りの想いをぶつけていました
17年前に脱北妻(76歳)が語ります
1961年当時20歳在日コリアンの夫と北朝鮮へ
悪い印象しかない 騙されて来た感覚しかない
3年たてば日本に里帰りできると言われ信じていたが
新潟港から船で3日かけて着いた北朝鮮で船の上から見たものはやせこけた子供の姿・・・
だまされた 帰らせてくれと騒げば 話しましょうと船から降ろされてそれ以来日本に変えれる話は一切なかったようです
船からおりたらお終い
自分が聞いた印象と全然違う世界と感じたからみんな騙されてきたと感じたようです
給料は食料など現物支給 一家8人国が用意したアパート8畳一間
水道管も来ていない アパートの裏にある川から水を汲んできた
食料の配給は月に2回 15日分の食料は小麦粉だけ
4年後には配給も少なくなり生活は困窮 6人の子供を養うために他人の畑の
農作物に手を出していたようです・・・
そんな生活を40年も続けたのですね まだ北朝鮮には娘さんが居るようです
もう会えないと涙流して悲痛な面持ちでした・・・
北朝鮮帰還事業の本音と建前
北朝鮮の建前 在日コリアンの帰還希望者支援
北朝鮮の本音 緒戦戦争で減った労働力の増強
日本の建前 在日コリアンの人道的配慮
日本の本音 生活保護の受給者削減(在日コリアンの受給率は日本人の10倍以上)
脱北もできずまだまだ苦しんでいる人達が沢山いるかもしれませんよね
核放棄して自然も生活も豊かな生活ができる国になってくれたらいいのに
クーデターなどが起こって何かが変わればいいのにって思ってしまいます^^;